こんにちは、久しぶりです。
麻佑です。
本を読んでいて、なんとなく気がついたことがあります。
それは、「情報」と「食べ物」はそっくりだということです。
そもそもの話、「食べ物」は衣食住の中に含まれていますが、
「情報」は含まれていません。
なので根本的に違うじゃないかとも思いましたが、
ぐるぐる考えた結果、「個」を形成するうえで絶対に必要なものです。
だって、「情報」がないと、みんな抜け殻になってしまうので。
生きていく中で出会う「情報」が一人一人違うから、
違う人間が形成されて、個が出来てくるのだなあと感じます。
生みの親からして違いますが、生まれた子にそれぞれ与えられた目、鼻、口、手、足。
それぞれがどのように機能するかは持ち主本人もわからず、自由です。
一人ひとり、出会う「情報」はばらばらです。
出会う「情報」で全く同じ組み合わせは生まれません。
たとえば、全く同じタイミングに生まれた双子は似ているかもしれませんが、
全く同じタイミングでご飯を食べたとしても、そのあとお風呂に入る時間は同じじゃなかったりします。
双子の弟がお風呂に入った。そのあと兄が入った。
兄が入ったときに、床がぬれている感覚がした。そこで「掃除をしよう」という気持ちが生まれた。
このとき、当たり前ですが、弟には「掃除をしよう」という気持ちは生まれません。
あるいは、
兄と弟は小学校まで同じ道を歩いていたが、途中で弟のクラスメイトに出会った。
このとき、兄は弟がクラスでどう見られているのか考える機会を得た。
こうやって、少しずつ『ずれ』が生まれるのだと思います。
「情報」を幅広くとらえると、「食べ物」と同じくらい重要なものなんじゃないかなと思います。
どんなに美味しいものを食べても、人は消化します。
人間は体内に取り込んだエネルギーを燃やして活動するので、消化するのは当たり前なのですが。
美味しいものと同様、どんなに覚えていたい情報も、そのままにしておくと忘れてしまいます。
不味いものは、味が残り続けて消えなかったり、知りたくない情報は、記憶に残り続けたりします。
『消化』と『忘れる』をイコールと考えると、「食べ物」と「情報」はすごく似ています。
こんなかんじで、共通しています。おぉー。
こういう発見をすると、なんだか考えることが楽しくなってきます。
「食べ物」と「情報」の違いは、すぐ取り出せるか取り出せないか、だと思います。
「食べ物」は、もう一度作らない限り味わうことができません。
はかないのです。作り手がいれば、100%とはいきませんが、違いに気づかない程度で同じものを再現できます。
料理が得意だったら真似できてしまうので、作り手とほぼ同等のことができます。
ただし、100%同じ再現はできません。だから素敵なのですが。みかんひとつにしたって、気候の違いなどによって味が異なります。
「今年はあんまり甘くないな」「去年は雨が少なかったからね」など。
素材自体の持ち味が変わるわけです。なので、まったく同じものを再現するのは難しいです。
気づかないかもしれないですが。
だから、居酒屋さんとかラーメン屋さんとか、
定番メニューを掲げることができるお店って本当にすごいなと思います。
同じものを、同じように再現できる。そう考えるとおふくろの味、っていうのもすごい。
職人の技です。
一方、「情報」は残して、文字として書き留めておくことができます。
残しておけば、また見ることができます。
『初めまして』をしたときの衝撃はもう作れませんが、
次取り入れたときは新しい気持ちで見ているので、別の考え方が生まれるかもしれません。
最近の人が使う情報収集源の一つとしてSNSがあります。
主にスマートフォンユーザでTwitterやFacebookなどのSNSから「情報」を得ている人は、
口を大きく開けているカービィみたいだなと、私は思います。
カービィ、やったことありますかね。
すごい勢いで、目の前の物を容赦なくどんどん吸い込むカービィ。
基本はキャンディやステーキなどを食べてHPを増やしますが、たまに間違えて爆弾を食べたりしちゃいます。
それでHP減、みたいな感じです。
今の人もカービィと一緒で、色々な情報を一気に吸い込むので、
豪華なお肉を飲み込んで元気になることもあるけど、
賞味期限の切れたお弁当を誤って食べて、気分が悪くなる。
スマートフォンのTwitterアプリのボタンを無意識に押してしまっている人が、
Bボタン(だったかな)を押して口をあけてどんどん物を吸い込むカービィに
似てることに気がつきました。
なので、取り入れる情報はあらかじめ精査していかなければいけないな、
と思ったりするのです。
でも、偶然の出会いは楽しいものなので、なかなか難しいのですが。
インターネットが現れたことにより、情報は否応なくばんばん目に入る世の中になりました。
情報=食べ物として考えてみると、誰でも情報屋さんになれてしまうので、
美味しいものも、なんとなく口当たりのよいものも、どんどん食べてしまうことになります。
たまにものすごく美味しくないものを飲み込んで、お腹を壊します。
私自身、たまに消化出来ないものをごくっと飲みこんでしまって苦しくなるときがあったりします。
ああ、これは取り入れたくなかった、知りたくなかった。そんな感覚になります。
でも、そんなとき自分のお金で、自分が必要としている情報を食べると、
ものすごく満足感・安心感があります。
それが、「本」です。
自分が美味しいとわかっている居酒屋さんで食べるごちそうみたいなもんだと思います。
だから、「本」って物凄く大事ですね。
いまの世の中だからこそ、本当に大事だなと思いました。
インターネット上にのっている情報も、ちゃんと食べるポイントを選べば大丈夫なのです。
ポイント選びが難しいなと思うわけですが。
今だったら、エバーノートとか使って保存しておけば、検索機能もあってひょひょいと探せて便利です。
忘れても、求めたときにまた食べれます。
自分なりにどう感じたか残しておけば、また次食べたときとの感覚の比較が出来ます。
インターネットで検索して情報を得る行為、SNSで情報を得る行為、「本」を読む行為のなかで、
「本」を読む行為が最も食べることに似ているように感じました。
書店で本を選ぶ感覚と、レストランでメニューを選ぶ感覚は似ています。
本を1ページずつ開く感覚と、お箸でおかずを口に運ぶ感覚も。
なんにしろ、「情報」をお行儀よく食べれるものが『本』だなと思ったのでした。
といっても、私も今を生きる人間なのでSNSはものすごく使っていますけど。
有難い世の中で、自分の考えもすぐアウトプット出来ます。
前は返事のなかった独り言に、共感してくれる人がいたり、繋がれたり、
ということは素晴らしいことです。
でも、そんな今の生活のなかに、
自分の感覚で、自分で選んだ本を読むとゆう行為は大切にしてゆこうと思いました。
せっかく、残してくださっている方がいるのだから、食べたらいいじゃないか。
「情報」と言えば、TwitterもFacebookも、
情報という名の食べ物が、どんぶらこどんぶらこと流れていくものですね。
どんぶらこ。どんぶらこ。自分が出てくる本当に食べたい情報なんて、
桃太郎に出てくる、桃みたいなもんです。
どんなに素敵な桃がいたとしても、流れてしまっては出会えないのです。
リツイートされてまた桃はやってくるかもしれませんが、
自分が本当に欲しかった桃には一生会えないかもしれないわけです。
だから、たまには、見失わずにちゃんと探そう。出会いにいこう。と思いました。
本に。
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それはそうと、なんでこんなにもりもり頭で色々と考えたかというと、
久々に本2冊をまる1日で読み終えたからです。私にとってはものすごく珍しいことです。
熱中症になってしまい、ふらつきがひどく、会社にも行けませんでした。
能動的な絵や作曲はたぶん具合悪くなると思ったので、
安静に、ということで本を2冊読みました。
私は本を読むペースがすさまじく遅く、途中でなんとなく読まなくなってしまうものが多いです。
あんまり、はまらないのです。人から借りた本も読みきれなかったりします。
でも、今回はぺろりとたいらげました。美味しかったのです。
きっと。お腹一杯になるまで、無我夢中でたらふく食べ(読み)ました。
そうして、今余韻に浸っています。ちょっと疲れてきたので、また寝よう。
結局文章書いているんだから、能動的なことやってるじゃないか。笑
さすが、自分のお金で買った本と、読んだらいいよと進められた本。
素敵な情報がたくさんつまっていました。
ブログ週1の約束は相変わらず守れていませんが、
製作や仕事が忙しいときは無理せずお休みするって勝手に決めました。
描きたい、弾きたい、があくまで最優先とゆう、言い訳のようでほんとの理由です。
私の作っているものも、情報のひとつとして誰かの人生に影響するものになってくれていたら、
嬉しいです。なるかもしれないと信じて、発信し続けたいです。
ああ、よい本を読んだな。ごちそうさま。
最後に、本の紹介を。
『仕事や人生や未来について考えるときにアーティストが語ること』
野崎武夫=編(フィルムアート社)
『ネットがあれば履歴書はいらない』
佐々木俊尚著(宝島新書)
響きました。
出会えてよかったです。
さて、やっぱり疲れたのでもう一度眠ろう。
久々に長く文章書いたな。おやすみなさい!
2013.8.15 麻佑(Mayu)